費用効果分析と費用便益分析を同じ手法だと思って使っていると、薬事申請や医療経済評価で致命的な誤りを犯し、提出書類が却下されるリスクがあります。
費用効果分析(Cost-Effectiveness Analysis:CEA)は、ある医療介入にかかる費用を、その介入が生み出す「臨床的な効果」で割って比較する手法です。ここで言う「効果」とは、生存年数(LY)や質調整生存年(QALY:Quality-Adjusted Life Year)、検査陽性的中率など、金銭に換算しない臨床指標を指します。
つまり「1QALYを得るために何円かかるか」という形で表現するのが基本です。
日本では2019年から、中央社会保険医療協議会(中医協)が費用対効果評価制度を本格導入し、一部の医薬品・医療機器の保険収載審査にCEAが公式に使われるようになりました。国際的にも、英国のNICE(国立医療技術評価機構)は「1QALY当たり£20,000〜£30,000(約400〜600万円)」を費用対効果の閾値として設けており、CEAが政策決定に直結しています。
医療従事者にとって馴染み深い手法です。
CEAで登場する代表的な指標が「増分費用効果比(ICER:Incremental Cost-Effectiveness Ratio)」です。これは、新しい治療Aが既存治療Bと比べて「追加でかかる費用÷追加で得られる効果」で計算されます。日本の中医協では、ICERが500万円/QALY以下を費用対効果が高いと判断する基準として議論されています(2023年時点)。
この数字だけ覚えておけばOKです。
CEAの弱点は、「異なる疾患領域の介入を横断的に比較しにくい」点にあります。例えば、がん治療のCEAと感染症予防のCEAを直接比較することが難しく、あくまで同一の効果指標を持つ介入同士での比較が前提となります。
厚生労働省:中央社会保険医療協議会 費用対効果評価専門部会(公式資料)
費用便益分析(Cost-Benefit Analysis:CBA)は、費用も効果も「すべて金銭価値(円)に換算」して比較する手法です。介入の結果として得られる健康上のベネフィットを「いくらの価値があるか」として金額に置き換え、費用との差額(純便益)やB/C比(便益÷費用)を算出します。
これが費用効果分析との最大の違いです。
例えば、ワクチン接種プログラムを評価する場合、CBAでは「感染者が減ることで回避できる入院費・労働損失・介護費」などを合計して便益額とし、プログラムのコストと比べます。こうすることで、医療プログラムと道路整備や教育政策などの全く異なる事業を、同じ「円」の単位で横断的に比較できるメリットがあります。
異なる分野の事業を比較したいときに強い手法ですね。
一方で、CBAには倫理的な課題もあります。人の命や健康を金銭換算することへの抵抗感は根強く、特に臨床現場では「生命を円で測るのか」という批判を受けやすいです。また、健康の価値を金銭換算する方法(支払意思額法・WTPなど)自体に主観性が伴うため、結果の解釈に注意が必要です。
| 比較項目 | 費用効果分析(CEA) | 費用便益分析(CBA) |
|---|---|---|
| 効果の単位 | 臨床指標(QALY・LYなど) | 金銭(円・ドルなど) |
| 主な使用場面 | 医薬品・医療機器の評価 | 公衆衛生・病院経営・政策評価 |
| 横断比較 | 同一指標の介入のみ | 異なる分野も比較可能 |
| 倫理的ハードル | 比較的低い | 生命の金銭換算に批判あり |
| 日本の保険審査 | 中医協が公式採用 | 公式審査での採用は限定的 |
医療経済評価では、CEAとCBAのほかに「費用効用分析(Cost-Utility Analysis:CUA)」という第三の手法が存在します。混同しやすいので注意が必要です。
CUAはCEAの一種と位置づけられることが多いのですが、効果指標として特にQALYを使う点が特徴です。QALYは「生存年数×生活の質スコア(0〜1)」で計算され、例えば「0.8の生活の質で1年生存=0.8QALY」と表します。この指標により、単に「何年生きたか」だけでなく「どれだけ質の高い生活を送れたか」も評価に組み込めます。
QALYが基本です。
日本の中医協の費用対効果評価においても、CUAの枠組みを採用しており、ICERはQALY単位で報告することが求められています。一方、単純なCEAでは「血圧を何mmHg下げるか」「感染率を何%減らすか」といった疾患固有の指標を使うため、異なる疾患との比較には向きません。
この3つの手法を整理すると、「CEA(臨床指標)>CUA(QALY特化)>CBA(全て金銭換算)」という粒度の違いとして覚えると理解しやすいです。医療従事者が学会発表や研究論文でこれらを参照するとき、手法名を取り違えると査読で指摘を受ける原因になるため、定義の正確な理解が求められます。
ISPOR(国際医薬経済・アウトカム研究学会):医療経済用語集(英語)
実際の医療現場でCEAがどのように使われるかを、具体例で確認しましょう。
例えば、2型糖尿病の治療薬AとBを比較するケースを考えます。治療薬Aは年間費用30万円で2.0QALYを獲得、治療薬Bは年間費用50万円で2.5QALYを獲得するとします。このとき、AからBへ切り替えた場合のICERは以下のように計算されます。
この場合、ICERは40万円/QALYとなり、日本の閾値(500万円/QALY)を大きく下回るため、費用対効果は「高い」と判断されます。これは使えそうです。
ただし、実際の分析ではモデル構築(マルコフモデルなど)や確率的感度分析(PSA)を行い、不確実性の幅も示す必要があります。感度分析とは、「前提条件を変えても結論が変わらないか」を検証する作業で、論文審査や行政への申請では必須とされています。
計算そのものよりもモデルの前提設定が難しいところです。
医療機関内での費用データ収集においても注意点があります。直接費用(薬剤費・入院費・処置費)のほかに、間接費用(患者の労働損失・介護者の時間コストなど)をどの範囲まで含めるかによって結果が大きく変わります。分析の視点(医療保険者の視点か、社会的視点か)を最初に明確に設定することが重要です。
Minds(医療情報サービス):医療経済評価の標準的手法に関するガイドライン(PDF)
多くの医療従事者は「費用便益分析は公共政策の話であって、自分たちには関係ない」と考えがちです。しかし近年、病院経営の戦略的意思決定においてCBAの考え方が注目されています。これは意外ですね。
具体的には、電子カルテシステムの更新や手術ロボットの導入など、大型医療機器への投資判断でCBAが活用されています。例えば、手術支援ロボット(ダヴィンチ)の導入に際し、導入費用(約3〜4億円)と比較して、合併症減少による再入院費削減・在院日数短縮・収益増加などを「円」で積み上げて便益額とし、投資回収の可否を判断する、といった形です。
この判断プロセスがCBAの実践例です。
また、感染対策の分野でも、COVID-19パンデミック以降にCBAの応用が広がりました。院内感染対策への投資(N95マスクの備蓄・陰圧個室の整備など)を、院内クラスター発生時の損失(診療停止・風評被害・訴訟リスクなど)と比較することで、「予防投資の経済的合理性」を数字で示せるようになります。
感染対策の意思決定に説得力が生まれます。
医療従事者が経営層や行政に対して予算要求を行う際、「患者に良いから必要だ」という主張だけでなく、CBAの枠組みで「投資回収の根拠」を示せると、承認される可能性が高まります。こうした視点は、看護管理者や医療安全担当者など、組織運営に関わるポジションの方にとって特に実践的な武器になります。
医療経済評価の知識を深めるには、日本医療経済学会や日本薬剤経済学会が提供する研修プログラムや、ISPORのオンライン学習リソースが参考になります。特に医薬品の保険収載評価に関わる薬剤師・医師・HTA(医療技術評価)担当者には、中医協の公式ガイドラインを一読することをおすすめします。