記憶障害における前向性健忘と逆行性健忘は、脳損傷が起こった時点を基準に、失われる記憶の時間的方向性が異なる2つの病態です。前向性健忘は障害時点以降の情報の記憶障害を指し、近時記憶の記銘力障害として現れます。一方、逆行性健忘は障害以前の情報の記憶障害であり、遠隔記憶の想起障害として特徴づけられます。健忘症候群では通常、前向性健忘と逆行性健忘の両者がみられますが、それぞれ単独で出現する症例も報告されています。bsd.neuroinf+1
前向性健忘は、海馬を含む内側側頭葉、間脳、前脳基底部という3つの主要な脳領域の損傷により引き起こされます。これらの部位は2つの大脳辺縁系回路(内側辺縁系回路であるPapez回路と腹外側辺縁系回路であるYakovlev回路)を構成しており、記憶の記銘と固定化に重要な役割を果たしています。限局した病巣でも強い前向性健忘をきたすことが知られており、特に前脳基底部の障害では作話やその他の行動異常を伴うことが多いという特徴があります。bsd.neuroinf
臨床的には、新しい取引先の会社名を覚えられない、今朝の朝食のメニューを思い出せないといった日常生活における新規情報の記銘障害として現れます。患者は発症後の出来事を数分から数時間で忘れてしまい、同じ質問を何度も繰り返すという行動が観察されることがあります。前向性健忘は、障害発症後を対象とする記憶障害であり、新しい情報・物事を覚えることが困難になる点が最大の特徴です。mcsg+1
逆行性健忘は、発症以前の過去の出来事に関する記憶を思い出すことの障害として定義されます。健忘期間は多くの場合数か月から数年に及びますが、症例によっては数十年に及ぶこともあります。特徴的な現象として「時間勾配(temporal gradient)」が知られており、発症時点に近い出来事ほど思い出しにくく、発症時点から遠い過去の出来事ほど思いだしやすいという傾向が認められます。ただし、必ずしもすべての症例で時間勾配が認められるわけではありません。bsd.neuroinf
逆行性健忘の回復過程では、発症時点で思い出せなかった過去の事象を、発症から時間が経過するにつれ想起できるようになってくることがあります。このように健忘期間が徐々に短縮し、記憶が消滅している時点が発症時に近づいていきますが、ある時点まで短縮した後それ以上短縮せずに残存することも少なくありません。外傷性脳損傷などでは逆行性健忘が発現するとともに、その後に健忘期間の短縮もみられることがしばしば報告されています。同級生の顔・名前を思いだせない、過去の記憶がまるでないといった症状として現れます。mcsg+1
健忘症の診断には、日常生活における記憶障害を重視することが重要です。前向性健忘の診断では、記憶検査を施行することで障害が明らかになることが多く、特に注意障害の影響を考慮する必要があります。診断の際には、意識障害や知能障害との鑑別が特に重要となります。jstage.jst+1
MSDマニュアル 一過性全健忘の診断ガイドライン
画像検査では、MRIなどの情報を積極的に利用することが推奨されます。一過性全健忘のエピソード中に施行された脳MRIは通常は正常となりますが、MRIは脳卒中または占拠性病変を除外するのに有用です。興味深いことに、健忘期が解消した後に病変が描出されやすくなることが知られていますが、その理由は不明です。臨床検査としては、血算、凝固検査、および凝固亢進状態の評価を行うべきです。神経心理学的検査では、再生と再認を比較し、視覚性記憶と言語性記憶とを分けて評価することが重要です。msdmanuals+1
前向性健忘のリハビリテーションでは、反復訓練が中心的な役割を果たします。一つの事柄を繰り返し覚えることで、自然と記憶に定着させることを目的としています。例えば病院に行く日付を覚える場合は、日付を繰り返し復唱したり、家族が「病院はいつだった?」という質問を定期的に投げかけたりすることで、記憶が安定しやすくなります。mcsg
環境調整も重要な介入手段です。1日のスケジュールをルーティン化すると、毎日すべきことを覚えやすくなります。スケジュール表を目につく場所に貼ったり、アラームを設定したりして、次の予定を思い出しやすい環境を整えるのも有効です。財布やメガネなどよく使うものは置き場所を決めておき、使ったものは必ず元の場所に戻すことを習慣づけることで、探し物の頻度が減ります。mcsg
逆行性健忘の対応では、当時の写真や日記、人や場所を訪ねたりと、記憶のきっかけになれるような何かに触れ合う機会を増やしていくことが推奨されます。ある時突然思い出したりすることもあるので、根気よく取り組むことが重要です。身近な人と過ごしていたり、普段と同じ生活をしていて治る場合もあるため、必ずしも医師の世話が必要というわけではありません。rehabilidata+1
健忘症候群をきたす主要な疾患には、ウェルニッケ-コルサコフ症候群、視床梗塞・出血、ヘルペス脳炎、前脳基底部損傷(前交通動脈瘤破裂)、初期のアルツハイマー病、一過性全健忘などがあります。ウェルニッケ脳症は視床が損傷され健忘症候群を呈し、再生・再認とも障害されるため、誤りなし学習などの治療を行います。jstage.jst+1
脳科学辞典 健忘症候群の詳細情報
慢性のアルコール乱用または重度の低栄養がある患者ではチアミン欠乏症、脳全体の低酸素症または虚血、脳底動脈先端部の塞栓性閉塞(側頭葉前内側部の虚血を引き起こす)、様々な薬物中毒(慢性の溶剤吸入、アムホテリシンBまたはリチウム中毒)、視床下部腫瘍、心的外傷またはストレスなどが健忘の原因として挙げられます。脳震盪または中等度もしくは重度の頭部外傷が生じる直前および直後の記憶に対する外傷後健忘は、側頭葉内側部の損傷に起因するようです。msdmanuals
一過性全健忘は、突然発症する前向性健忘を主体とする症候群で、通常は数時間から24時間以内に完全に回復します。50歳以上の中高年に多く見られ、特徴的な症状として「ここはどこか?」「自分は今何をしていたか?」といった質問を何度も繰り返すのが典型的です。一方で、自分の名前、家族の顔、過去の人生経験などにはほとんど影響を受けず、知的機能、言語能力、認識能力には通常変化は見られません。neurosurgerycenter
抗NMDAR脳炎の症例では、発症から急性期治療まで6カ月以上経過した患者では前向性健忘や展望記憶の障害が慢性期にも持続したという報告があり、早期の介入の重要性が示唆されています。解離性健忘は、機能性逆行健忘ともいわれ、明確な器質的神経疾患に帰着することが困難な健忘であり、心因性の要因が関与していることが多いです。crs.smoosy.atlas+1
医療従事者として理解すべき重要な点は、前向性健忘と逆行性健忘は単独で出現することもあれば、同時に出現することもあるということです。また、病変の性質によって健忘期間の消長パターンが異なり、外傷性脳損傷では健忘期間の短縮が見られる一方、アルツハイマー病など進行性の神経変性疾患では健忘期間が延長していくという違いがあります。記憶障害の内容や程度に応じた適切なリハビリテーション治療を提供することで、患者の生活の質の向上が期待できます。rehabilidata+3