ゲノミクスは生物の全ゲノム情報を対象とし、遺伝子配列・構造・機能の解析を目的としています。次世代シーケンス技術(NGS)を用いることで、疾患関連遺伝子の同定や点突然変異の検出が可能になりました。ゲノムは全ての細胞でほぼ均一であり、比較的安定した情報源として機能します。
一方、プロテオミクスは生物が発現する全タンパク質(プロテオーム)を研究対象とし、タンパク質の構造・機能・相互作用・修飾を質量分析法や二次元電気泳動などで大規模に解析します。プロテオームは細胞や組織の種類、時間、環境によって動的に変化するため、ゲノミクスよりも複雑です。
ヒトの遺伝子数は約1.9万と推定されていますが、選択的スプライシングや翻訳後修飾により生成されるタンパク質の多様体(プロテオフォーム)は100万個以上に及ぶ可能性があります。この多様性こそが、プロテオミクスがゲノミクスよりも生体機能について多くの情報を提供できる理由です。
遺伝子の転写レベルから得られる情報だけでは、実際のタンパク質発現量を正確に予測することはできません。mRNAが大量に産生されても、翻訳効率の低下や分解の促進により、タンパク質量は少なくなる場合があります。
多くのタンパク質は翻訳後修飾(リン酸化、メチル化、アセチル化など)を受けて初めて活性化されます。これらの修飾はゲノム情報からは直接読み取れず、プロテオーム解析によってのみ検出可能です。翻訳後修飾の異常はタンパク質機能に変化を引き起こし、様々な疾患の原因となります。
プロテオゲノミクスは、ゲノムとプロテオームの統合的研究により、がん生物学についてより完全で統一的な理解を提供することが2016年の複数研究で実証されました。この統合アプローチにより、ゲノム異常とその下流のタンパク質レベルでの影響を同時に把握できるようになっています。
プロテオーム解析における質量分析法は、ボトムアップ質量分析とトップダウン質量分析に大別されます。ボトムアップ質量分析では、タンパク質を酵素で消化してペプチド断片を生成し、TOF MSで分析します。この方法は現在最も普及しており、数千のタンパク質を同時に同定・定量できます。
トップダウン質量分析は、FT MSを用いてタンパク質を断片化せずにそのまま分析する手法です。タンパク質の翻訳後修飾を含めたアミノ酸配列の完全な情報が得られ、修飾部位の正確な同定が可能になります。FT MSの発達により、生体から抽出したタンパク質をそのまま高分解能・高精度で効率的に分析できる時代が近づいています。
de novoシーケンシング機能を用いると、MS/MS質量ピークリストから翻訳後修飾を含むペプチドのアミノ酸配列を算出できます。この技術は、ゲノムデータベースに登録されていない新規タンパク質や変異タンパク質の発見にも貢献しています。
近年の質量分析計の高性能化と定量技術の開発により、ターゲットプロテオミクスが確立され、任意のタンパク質のハイスループットかつ正確な定量が可能になりました。多重反応モニタリング法などの技術を用いることで、定量性と再現性の問題が大幅に改善されています。
プロテオゲノミクスの技術革新と医療分野での応用状況について詳しく解説されています(日本電気泳動学会誌)
がんの早期診断や個別化医療において、バイオマーカーの発見は極めて重要です。早期に診断され治療が開始された症例の生存率は進行がんに比べて良好であり、簡便に検出できるバイオマーカーは治療成績の向上に直結します。
これまで臨床で承認されたバイオマーカーの多くはゲノムレベルの研究から見出されたものですが、タンパク質バイオマーカーはゲノム異常から固定されたマーカーとは異なる有用性を持ちます。タンパク質は生体内で実際に機能する分子であり、疾患状態をより直接的に反映します。
プロテオーム解析では、特定の分子背景を持つ腫瘍によく奏効する分子標的薬の治療効果を予測するバイオマーカーの探索が進められています。質量分析と分離科学の進展により、ゲノムスケールのプロテオミクス分析が身近になり、新しい薬を用いた治療法の最適化が可能になりつつあります。
定量プロテオミクスを用いた疾患バイオマーカー探索では、血清・尿・髄液などの体液サンプルから低侵襲的にタンパク質を検出する技術が開発されています。これにより、患者への負担を最小限に抑えながら、診断や予後予測、治療効果モニタリングが実現されています。
ファーマコプロテオミクスは、ファーマコゲノミクスよりも高感度・高信頼性で新しいバイオマーカーの同定につながることが期待されています。薬剤投与における遺伝子・タンパク質の発現変化をオミックス技術で解析することで、創薬標的分子の探索やバイオマーカーの発見が加速しています。
個別化医療(精密医療)は、患者の遺伝的背景・生理的状態・疾患の状態を考慮して、患者個々に最適な治療法を設定する医療です。ゲノム情報に基づき患者個々の医薬品効果を最大化し、副作用を最小化することを目指します。
プロテオゲノミクスは、がんなどの複雑な疾患において、ゲノム変異がどのようにタンパク質の発現や機能に影響を与えるかを明らかにします。米国国立がん研究所(NCI)の研究では、プロテオゲノミクスががん生物学の完全で統一的な理解を提供し、個別化医療に応用できることが示されました。
PTMプロテオミクス(翻訳後修飾プロテオミクス)は、遺伝子レベルの解析では不可能な疾患生物学の把握を可能にします。リン酸化・メチル化・アセチル化などのPTMによるタンパク質の活性化または阻害を解析することで、疾患特異的なシグナル伝達経路の異常を特定できます。
現在、最先端のトランスオミクスアプローチでは、ゲノミクスとプロテオミクスを組み合わせることで、がんの個別化医療が実現しつつあります。患者ごとのゲノム変異とタンパク質発現プロファイルを統合的に解析し、最も効果的な治療戦略を選択することが可能になっています。
マルチオミクス統合解析は、ゲノム・エピゲノム・トランスクリプトーム・プロテオーム・メタボロームなどのデータを統合的に解析するアプローチです。相関解析・クラスタリング解析・主成分分析・ネットワーク解析などの手法により、生命現象の包括的理解と疾患発症機序の解明が進み、臨床情報と組み合わせた個別化医療の発展が期待されています。
オミクス解析の基礎から統合解析、個別化医療への応用まで体系的に説明されています(Rhelixa)